江戸川放水路とは? 江戸川放水路の歴史と成り立ち

江戸川放水路とは、江戸川の下流で分岐している本流のことです。

江戸川の歴史

江戸川の歴史 江戸川はもともと利根川から枝分かれした川です。1641年に現在の江戸川上流部が人工水路として開削されたのがルーツになっています。

そもそもの背景になったのは、1603年に徳川家康が征夷大将軍になり、江戸を行政首都としたため、物流網を整備する必要がありました。当日の物流網は、当然ですが陸路は効率が悪かったため、水路に着目した訳です。

江戸時代に、徳川家康の江戸入府後、伊奈忠次、伊奈忠治らによる利根川東遷事業が始まりました。この利根川東遷事業は江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業と呼ばれています。利根川東遷事業の目的は、治水、新田開発、水運整備による流通路確保を図る、という壮大なものでした。

国土交通省のサイトに以下の河川マップが紹介されていましたが、上が千年前の河川図で、下が現在のものです。驚いたことに、関東の東側は海水が流れ込む香取海と呼ばれる深い湾になっていて、現在の北浦、霞ヶ浦、印旛沼などは全てこの湾の一部です。さらに、利根川は現在のように銚子に流れ込んでいるのではなく、流出先は現在の東京湾です。

(http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00222.htmlより引用)

現在の江戸川は、利根川東遷事業の一環として、前述の通り1641年に現在の江戸川上流部が人工水路として開削されました。主流を東に流した上で、流入をコントロールしながら、水運として活用する、という構想だったようです。その結果、江戸川と利根川は、東北地方や北関東からの物資を涸沼と霞ヶ浦、および銚子を経由して江戸へと運ぶ水運の動脈となり、鉄道網が整備されるまで人々の生活を支える基盤となりました。

分岐しているのは、現在の千葉県野田市で、ここには関宿城博物館があり、当日の利根川東遷事業の様子を学ぶことができます。

 

江戸川放水路の誕生

江戸川放水路は、1919年に江戸川の河口部が開削され、誕生しました。この放水路の目的は、河床上昇による洪水の被害を避けるためで、かつては明治時代になっても洪水被害が頻繁に発生していました。ですから、開削された川を「放水路」と呼ぶようになったのです。江戸川放水路は江戸川の本流となったため、篠崎から下流の旧流路は「旧江戸川」と呼ばれるようになりました。